自殺が是になる可能性

人は必ず死ぬわけで。

世界には、死んだ人とこれから死ぬ人しかいない。100年の永きにわたって命をつないできた人も、この先どこかで終わりを迎える。

殺人はなぜいけないのか、と問われることがある。少なくともまだ生きていたい人の命を奪うことは悪だと言われても仕方がないだろう。では生きていたくない人なら?例えば自分自身なら?

僕らは殺人の是非を問う前に、自殺の是非についてもう少し考えた方がいい。例えば、誰も知らないようなどこかの秘境で生まれ、先に家族をすべて失い、知り合いの一人もいないような人間がひっそりと命を絶つことを誰が責められるか。責める前に、その人間の存在を誰も知らないのだとしたら。

現代の日本に生きる僕らが、何らかの形で他者との交わりを廃し、ひっそりと命を絶つことは可能だろうか。出来たとして、その後亡骸を誰にも見つからずにやり過ごすことは出来るだろうか。それが出来たとき、誰にも気付かれずに死ねた僕は安らかに眠れるだろうか。

 

ま、死んでしまえばそんな事知る由もないのだが。

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死んだ女の子

雨宮まみさんが死んだ。
死因についてどうこう言う気はない。そこを詰めても、喪失感が軽減されるわけではないから。
もちろん(というのも変な言い方だが)、僕は彼女とは面識はない。僕が勝手に彼女に影響を受け、僕の知る人と重ね合わせ、勝手すぎる感傷に浸っていただけである。
とはいえ、それほど著作を読んでいたわけでもない。はてなダイアリー『弟よ!』を斜め読みしていた僕は、出世作とも言える『女子をこじらせて』を発刊を知り、割と早い段階でそれを入手し、徹底的に打ちのめされ、ああ、この本がもう少しだけ早く世に出ていれば、あいつも死ななくてすんだのかもしれない、などと勝手すぎることを思っていた。
人は思うようにはならない。何しろ自分すら自分の思うようにはならないのだから。僕は、今考えると絶対に失ってはならない人間を失って、糸の切れた凧がその行く末を案じるくらいに迷走をしていた。そんなときに雨宮さんの本と出会った。
そうだ、どんなにみっともなくても生きていくしかないのだ。自分が愚かでも、どんなに他人に迷惑をかけても、死ぬ以外の選択肢を選んでいくしかないのだ、と思ってここまで生きてきた。罪も罰も、生きてきた先にある。それは、雨宮さんの著作や生き様から僕が学んだことだった。


過去は戻れないから過去なのだ。僕は彼女のいない今を生きるしかないのだ。


今回の事故(僕はそう思っている)を受けて、ちょっとだけ検索した。「いつか電池がきれるまで」ってのは有名なサイトらしい。上位に上がってきたそのサイトを読んで、ちょっとだけ僕は混乱した。あくまで個人的な事情だ。かのブログの文章は僕の胸を打った。それ以上に彼のブログ名が僕を揺らしたのは、あくまで僕の事情だ。


僕は生きていく。惨めだろうとみっともなかろうと。

youtu.be

思い出したように

久々の更新。
通勤電車の中、ハイクもTwitterも書き込む気がしない夜、つらつらと車内の様子でも描写してみようと思った。
典型的ブルーカラーの僕は、典型的ブルーカラーの佇まいで電車の座席に座っている。隣ではショートとセミロングの中間くらいの髪型の女性が船をこいでいる。黒いデニムの上着、黒いハンドバッグ、半分ピンクのネイルはラメがキラキラと光っている。顔は見えない。見えないところが良いと思う。
昔の人の言葉。女性が美しく見えるシチュエーション。夜目遠目傘の下。どれもちきんと顔が見えない。男のスケベ心は、見えないものにロマンを感じるようだ。女性もそうかもしれない。今度誰かに訊いてみよう。
随分夜が早くなった。このままどんどん冬になっていくのだろう。電車はどんどん郊外を進む。暗い夜の中、あかあかと蛍光灯をつけた電車は進む。いつの間にか起きた隣の女性は降りていった。僕はもう少し奥まで帰る。

心の旅が始まる

日本で「フリー・ハグ」という言葉が聞え始めたのはいつのことだったろうか、等と考える。

Wikipediaによると、2001年にアメリカで始まり、日本で盛んになり始めたのは2006年から2007年くらいだということ。

渋谷や原宿で『Free Hug!』と書かれたプラカードを持った男女がたまに出没していたらしい。僕は見たことがないが。

 

そもそも日本人は、抱き合うことでコミュニケーションを取ることがあまりない。特に初対面だったり、それに近い頻度の人と抱き合うことはまれだと思う。

僕自身はそういうことに抵抗はないが、まあ抵抗がある人がいるのは間違いないし(特に異性間だとそうだろう)、それを強要するなんてとんでもないことだと思う。

 

ところで、僕は数年前、ネット上で知り合い、現在でもつきあいのある友人と初めて会った時、別れ際に自然にハグをしていた。それはとても自然で、まるでそうすることが何かの運命であったかのように、僕は彼の身体に手を添えていた。性愛では勿論ない。何かそこには慈しむべきものがあるように感じたのは覚えている。

 

最近は『フィジカル・コミュケーション』という言葉があるらしい、言語や視覚以外の感覚、特に身体的な接触によって相手との理解を深めていくやり方。僕らが子供の頃に『スキンシップ』といわれていたものと同じものだろう。

 

しかし、ネットの世界にいると、このフィジカルな関係性というのは希薄になる。相手の声や顔すら知らない状態で言葉だけが行き交う。そして、言語に対する認識力という、実は非常に個体差の激しいものが試されるような瞬間を幾度となく目にする。

それだけじゃ上手くいかないよなあ、と僕は思う。だから僕は出来るだけ他人の言葉に意見しないようにしている。勝手に『意見』『反論』だと誤解されることもあるが、根本的には自分のことを語っているつもりだ。もちろん行き過ぎることもあるし、それを反省したりもするのだけど。

僕は、いつも細々と自分のことをつぶやく。自分から世界がどう見えているのか、それに対してどういう行動を起こしたいのか。それが読む人にどう伝わるかはゆだねるしかない。難しいけど。

 

最近は、人と別れる時に握手をするようにしている。ハグすることもあるが、まあ親しい同性にほぼ限定される。ただ、その日にその人相手に費やした言葉や身振り手振りや表情や声の調子とは違う何かが、そうしたフィジカル・コミュニケーションで伝わればいいなと思う。

 

 

次回はいつ書こう?

Don't think, feel!

先日、僕の数少ない友人と食事する機会があった。

僕はそれなりに知人はいるが、友人と呼べる人は少ない。

そんな彼は、自分が興味のあることには非凡な才能を発揮するが、そうでないものには全く興味を示さない。本も読まないし、自分が好きじゃないジャンルの音楽も聴かない、TVも観ない。それで自分の好きなものを誰かに語ろうとするのはなかなかにハードルが高いのではないか、と僕は思う。

僕は彼に言った。「君が、本も読まず、TVも観ず、Don't think,feel.を貫くなら、もっとFeelしないと!もっと観たことないものに触れていかないと!」彼はあまり乗り気ではないようだったが、僕自身が自分が吐いた言葉にがっつり影響されていた。もっとFeelしないと。いろいろな場所でいろいろなものを観て、聴いて、家にいるなら何かを読んだり映像作品を観たりしないと、僕は僕の世界を広げられないまま年老いていくんだろうなと。それは出来れば想像したくない未来だった。

 

僕はいろんなものを観て、聴いて、感じて、考えることをしていきたいと思う。

その決意表明がこのエントリだ。

何においても飽きっぽい僕が、もし次回を書く機会があれば、「ハグ」について書こうと思う。